日記
プロフェッショナルってなんだろう。
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プロフェッショナルという言葉から何を連想しますか?テレビ番組にも「プロフェッショナル 仕事の流儀」というのがあり、すごい腕、才能、信念、方法論を持ったその世界での一流を連想するのが一般的でしょう。僕も大学や大学院を出て、そこで勉強したことを卒業しても続けているので、そのプロフェッショナルや一流という言葉は意識します。
僕が、この「プロフェッショナル」という言葉を考えたときに、ある人を思い出します。岐阜大垣ビエンナーレ2010に出展されていたマーティン・リッチズさんのことです。僕は、展示会場の設営スタッフをしていたので、傍らでアーティストたちの活動を見ていました。
マーティン・リッチズさんは、僕よりきっと3~40歳程度年配で落ち着いた人柄、マイペースに作品に準備を続けていました。展覧会が始まっても、作品の調整を続け、作品のコンディションを高めることに専念していました。彼から、すごい能力や腕を見せつけられたわけでもなく、ただそのことだけに「プロフェッショナル」を感じました。
仕事に専念することは、ある意味当然であり、なぜそんなことが「プロフェッショナル」なのかと疑問を感じるかもしれません。しかし、アーティストの中には、不平不満を言い、喧嘩をしたりする人もたくさんいます。また、能力が高いと言われ、器用に見える人も仕事を増やしすぎて破綻し、失敗してしまう人も見てきました。
僕は、アート以外に、デザインやプログラミングも学んできました。チームワークやプロジェクトでは、いくつかの担当を分けて、その役割を分担して、その仕事に専念するような仕組みがあります。その担当者というのは、その仕事に対して知識があり得意であることも大事ですが、クリエイティブなことだけではなく地味で地道な仕事もたくさんあります。そう考えると、僕は表面的な器用さより、そのことだけに時間と労力を費やしてくれる能力がプロフェッショナルではないかと思います。
僕のまわりには、クリエイティブな仕事に憧れて、アートやデザインにチャレンジしている人はたくさんいます。しかし、うまくいかないことが多いです。制作に専念することなく準備・時間不足で目標に到達できずに、破綻していることがよくあります。うまくいかないことには、十分な理由があると思いました。やるべきことをすれば、それなりに評価される社会だと思います。社会の評価というのは、それほど難しくも厳しくもないと思います。
「イシューから始めよ」という本の中でも、たくさんの仕事をするのではなく、仕事を見極めて絞り込むことが推奨されています。なぜ、たくさんのことをしてしまうのかと言えば、答えや成果を導き出す道のりを理解していないからです。目の前の仕事に集中することが答えの1つだと僕は考えています。または、いまの社会に情報が溢れすぎて、楽しくて簡単に見えることが多すぎるので、1つのことができないのかもしれません。多くの人は、仕事の質やカテゴリーで仕事に対するモチベーションや評価も変えてしまうような気がします。それは、つまり想像力の欠如と言えるし、ポジショニングの思考がないとも言えるでしょう。
目の前の作品に専念したマーティン・リッチズは「プロフェッショナル」でした。
以下の動画は、岐阜大垣ビエンナーレ2010に出展したマーティン・リッチズ + 三輪眞弘の「The Thinking Machine」
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