日記

記録メディアと輸送性

Posted on 2011-10-27

私は、ほとんど写真屋さんに行かなくなりました。
6、7年前に大学の課題で堀内カラーに行ったのが
最後になるでしょう。

写真屋に行くという事は、
写真を現像そしてプリントするということです。

プリンタが手軽に手に入るようになって、
家でもプリントできるようになりました。

しかし、今では、
家でさえ、プリントしなくなりました。

だけど、写真は
ディスプレイを通じて見ています。

そうなってくると、
「なぜ写真はプリントしなければいけないのか?」
というのが、大きな疑問を感じます。

たとえば、
絵画が、壁から脱出し、額に納まったことによって
不動産から動産資産へなり、流通できるようになりました。

そう、写真も誰かに渡す時になって、
初めてディスプレイから取り出して
プリントする必要が生まれます。

話は変わりますが、
昔、ブルーレイディスク(以下BD)という
映像記録メディアの規格合戦というのが、
話題になった時期がありました。

その戦いにおいて、
「BDは勝利した」という話になりましたが、
その話には続きがあります。

BDの本質的なライバルは、
ハードディスクだったということです。
いまのテレビディスプレイには、ハードディスクを内蔵
もしくは外付けできるようになっています。

映像記録メディアも、写真同様に誰かに渡す時になって、
初めてディスプレイから取り出して
プリントする必要が生まれます。

しかし、わざわざBDにプリントする

つまり誰かに渡す行為自体少ないです。

レンタルビデオ屋でもそうですが、
メディアは、渡すつまり輸送方法としての意味が大きいです。

しかし、私は、
レンタルビデオ屋にわざわざ借りに行って
返しに行くことが、とても面倒です。

少々高くても、
音楽もiTunes Storeでダウンロードするようになりました。

通信インフラやサービスの充実によって、
渡すという方法にも、選択肢が増えてきました。

動画はYoutubeにアップし、
写真はpicasaや数ある写真共有サービスにアップし、
SNSでみんなにお知らせする。

大量の写真や動画を、多くの人々へ、お金をかけずに
告知できるようになりました。

より独立的(スタンドアローン)な記録メディア自体が、
その存在意義を失いつつあります。

もちろん、だからといって
プリントされた写真が消滅する事はないでしょう。

一部の人々の趣味性に支えられていくという事は
想像できますが、それも何か寂しい話です。

機能としての良さを主張できないのか。
いろいろなモノの良さを考え直す時期にきていると思います。

修学旅行の写真が、教室の後ろや廊下に貼り出され、
1枚50円で販売されていた時代が、とてもなつかしい。

何を得て、何を失ったか
を考える事は今後を考えていく上で
大事だと思います。

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